展覧会構成
初期作品と諸国遍歴
プロイセン王国のビルンバウムにて、パン職人の家系に生まれたウリィ。11歳の頃に父親が亡くなると家族と共にベルリンへ引っ越すことになる。彼は画を描くために、衣類の小売商に弟子入りしてお金を貯め、その貯金を元手にヨーロッパ各地の美術アカデミーにて修行の日々を過ごすことになる。第一章では、諸国遍歴中にウリィが制作した作品を中心に迫っていく。

農家(1884年頃)

雨のリンデン通り(1888年頃)

上イタリアの山中湖(1890年頃)
ドイツ分離派と
苦難の時代
諸国にて経験を積んだウリィは、ベルリンへ戻り、ベルリンの美術館アカデミーへの入学を希望するが、希望は通らなかったため、再度修行のため今度はミュンヘンへ向かうことになる。そこでフランツ・フォン・シュトックといった著名な画家たちとの出会いに大きな影響を受けることになる。1889年にベルリンにて初の個展を開き、賛否両論の分かれる事態となったものの、当時のベルリン画壇の中心であったマックス・リーバーマン、アドルフ・フォン・メルツェルらに評価され、遂に画壇デビューを果たす。だが、恩人でもあるマックス・リーバーマンとの対立により、ベルリン分離派や画廊への出展を拒まれるといった苦難の時期にも直面することになる。 この頃からドイツ印象派とも言われるウリィの作風が確立していく時期にもなっていく。

秋の夕暮れの(1900年頃)

書斎机の女性(1898年頃)
晩年と再評価
マックス・リーバーマンが1911年にベルリン分離派の会長職を退いた後、ウリィは1915年にベルリン分離派への初出展を果たす。この頃、ベルリンは文化的にも隆盛を迎えており、ウリィはカフェや道路、ベルリンの街中の風景画を多く残している。一方でウリィは宗教画家として、旧約聖書の世界韓を現代風に描き出すライフワークにも熱心に取り組んでいた。それらの作品は1933年に設立されたユダヤ博物館に収蔵され展示されることになる。だが、同年に成立したナチス政権により、1938年には博物館が閉鎖され、作品が散逸するという憂目にあってしまう。戦後に再発見された作品や、亡命ユダヤ人らによって保護された作品たちが、世界各地の美術館に収蔵されたことで、今日でもウリィの作品を伺い知ることができる。本章では、ウリィが描いた当時のベルリンの街中を、絵を通してご案内していく。

夜中の散歩(1899年頃)

中央駅高架橋下の通り(1922年頃)

夜のベルリンのカフェにて(1920年頃)

交差点を渡る母と子ども(1920年頃)